2011年03月

東北関東大震災(断水)

つづき

震災の2日目になります。

震災当日は、近くの朝鮮学校で避難をさせていただき、日の出とともに自宅に帰宅しました。

明け方近くには旦那さんから帰宅したという連絡が入り、私たちとは合流せずそのまま帰って爆睡していました。

皆それぞれの震災1日目を終えました。

そして、本当の『夜』というものは、暗くて、あのように音の無い世界なのだとつくづく知ることになりました。

私の知っている夜は、まさに『作りものの夜』だったように思います。

本当の夜は、地震の恐怖もあったせいか、あまりにも静かで怖いものでした。

お互いの心を支えあった誰かが側にいてくれるということ、本当に救われました。

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  (↑震災後は、気温は低いものの天候に恵まれました。風はやや強い。)


家の中は朝日が差し込み、昨日の地震が夢ではなかったのだと、改めて現実を突き付けられました。

うちの両親も、家の中の様子を見て驚いていましたが、たぶんマンションの方が酷いのではないかと思いました。

昨日から、両親がずっと気に掛けていた花ちゃん(私が去年拾って育ててもらっている猫)は、マンションに戻ったら無事でいてくれたと連絡が入りました。

でも、かなり物音や余震に敏感になっていて、全く鳴かないとの話でした。

うちのジンくんと同じです、鳴かないのです。

取りあえず危険な物は昨日のうちにほぼ片付けたので、ニャン達がケガをすることはありません。

今日、これからのために、少し寝ることにしました(でも、寒かった)。

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  (↑このサイドボードは横長で結構重いのですが、10cmは軽く移動していました。1階)



ひと眠りして、すぐにまた起きだして、日中のうちに外の様子や両親の住むマンション(花ちゃんの無事)を確認するために外出することにしました。

(風邪予防のために『葛根湯』を飲みました。←私はいつも悪寒がするとこれを飲みます。)

我が家には食料や、水は人に分けてあげたいほど充分にあります。

どうやら、買いだめをする癖があるようです。^^;

この時点ではまだ電気が通じていないので、オール電化の家はとても厳しいことになります。

ガスもまだ通じていないでしょうが、停電になると料理よりも暖が取れなくなるのです。

蓄熱暖房器は、その名の通り深夜電力を使って、翌日放熱するためのエネルギーを電力で賄っています。

よって、今日から使えません。

3月でも、日が暮れるとまだまだ寒くて氷点下になることもあります。

超寒がり屋私は、どのように生きていけばよいのでしょう…

この時はまだ停電のためにテレビでの情報が一切入ってきていませんでした。

なので、東北地方を襲った大津波があのような甚大なる被害をもたらしていたことは夢夢思いもしませんでした。

目の前のことと、これからのことしか、考えられませんでした。

寒いなんて言ってられなかったのですね。

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  (↑2階の洋室にあるタンスです。これは相当重いのですが、50cmは移動しています。)


昨日の夜は、ヘリコプターの音の他に、救急車や消防車などのサイレン音が鳴り通しでした。

今日外を歩いて分かったのですが、このサイレンは支援物資などを運ぶ大型車が誘導車とともに緊急に走るために鳴らしていた音でした。

確かに、昨日一晩外にいてサイレンは聞こえても火事や煙を目にすることがなかったので不思議だと思っていました。

それと、外の風景ですが震度6強だったわりに地震の破壊力を感じさせるものはさほどありませんでした。

確かに地面に亀裂が入ったり、屋根の瓦が落ちていたり、塀(ほとんど大谷石)が崩れていたりするのは目にします。

ですが、阪神大震災の時のような「地面と空が平行でない」所は全く見当たりませんでした。

あの震災地では、数多くの建物は崩れ傾き、道路はうねっていました。

私が降り立った駅は、確か『王子公園駅』だったと記憶しているのですが、駅自体が斜めでどうやってホームから道路に下りればよいのか、また体の平衡感覚がおかしなことになっていました。

まさに、エッシャーのだまし絵の中にいるようです。

今回の地震で(茨城に)建物の被害が少ないのは、地震の破壊力を示す揺れの速度に関係しています。

建物の外観上の被害は少なくても、家の中の被害は酷いものです。

タンスが移動していたり、物が落ちているのはそのためです。

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  (↑タンスが地震の揺れでどのような動きをしたか、その跡がはっきりと残っています。)



マンションに着きましたが、当然エレベーターは使えませんので、13階まで階段を上ることになります。

ここまで歩いてきましたが、階段を含めて、私的にはかなりいい運動です。フー

部屋に到着すると、花ちゃんが静かに迎えてくれました。

可哀想に怖かったのでしょうね、たくさん話しかけて、たくさん触ってあげたら、安心したのか甘えて鳴くようになりました。ヨカッタ!

マンションは大型タンクに水を貯めているので電気さえ通じてしまえば水は出ます。

ここは電気もお昼過ぎには通じたので、洗いものも出来るし、トイレも使えました。

我が家はトイレがタンクレスなので、断水時は使えなくなります(取扱説明書より)。

タンクレスは文字通り水を貯めておくタンクがありません。

トイレの水を流す仕組は、入ってくる水の水圧で流れるれことになります。

デザイン上はすっきりしていて良いのですが、災難時(断水)にはトイレの価値が無くなります。

例え電気が通じたとしても、断水である限り水が流れない(使えない)仕組みなのです。

我が家は、悲しいかな、1階も2階もタンクレスのトイレを採用しています。

このタンクレスの恐ろしさは、夕方過ぎに体験することになるのでした。ううううーん。

トイレと、お風呂が使えないことで、夕方過ぎに今度は車でまたマンションにやって来ました。

また13階まで上ることになったのですが、トイレが普通に使えるって、とても幸せなことです。

被災地でトイレが出来ない環境である方々の健康面が心配になります。

マンションにあったテレビは3台ともこの地震ですっ飛んでいたために壊れてしまい、電気が通じても見ることはできませんでした。

情報は、父のジョギングのお伴である携帯ラジオだけです。

因みに我が家はラジオも無いので、情報は全く取得できてません。ケガモナカッタコトダシ...

お風呂もいただいて、気持ちよく自宅に帰ってきました。

すると、電気が通じていました。

断水はこの後も数日続くのですが、電気が通じたことでテレビからの情報を得ることができ、東北地方の悲惨な光景を目にするのでした。

言葉が出ませんでした。

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  (↑今は、地震のことなど感じさせないいつものジンくんです。)


両親の住むマンションの近くに水戸市の役所があるのですが、昼間移動している時に寄りました。

市役所の中は電気が来ていて、テレビの画面にたくさんの人が見入っていました。

それと、携帯電話の充電などをされている人も多くいました。

外では、自衛隊の方が来ていて支援物資であるパンとバナナを求めて並ぶたくさんの人に配布していました。

我が家にはコストコのパンが冷凍庫に眠っています。

電気さえ通じれば食べ放題なのだ~!と、心の中でつぶやきました。

そして、私の最大の任務であったこと…

市役所内には、今回の震災の対策室が設置されていて、そこへ昨日お世話になった朝鮮学校の避難場所への登録をお願いしてきました。

避難人数は子どもを含め40~50人、先生方が校庭の木を切って焚き火で暖を取っている状況であって、私もそこで助けていただいたと報告しました。

受け付けてくれた若い男性が、すぐに震災対策本部に連絡をしてくださり、避難登録が受理されることになりました。

これで、支援の物資も届くことになります。ヨシッ!

後日、朝鮮学校に行って確認をしたのですが、あの後から毎日おにぎりなどが届けられていると門番の女性が教えてくれました。ヨカッタヨカッタ!デス。

震災が金曜日だったので、土・日曜日と家(自分たち)のために生活の確保をすることができました。

断水が続き不便な生活ではありましたが、自分の家で過ごせることがとても幸せなことであると、停電と避難所生活(一日だけ)を経験して身にしみました。

こんな状況で、仕事に出なければならないのかと思う他は、何のストレスもありませんでした。

余震はずっと続いています。

つづく



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東北関東大震災(避難所)

つづき

↓以下の写真は、地震から5日目の3月16日(水)に買い出しに行った際に撮影しました。

自宅から徒歩5分の所に、普段私が買い物をしている『セイブ食彩館』(以下、セイブ)があります。

今日もセイブは営業をしていなかったのですが、違うスーパーで買い物を終えてその帰宅途中にセイブを通ると、焼鳥屋さんが出ていたので早速並んでみました。

セイブの中を覗いてみたら、こんな凄いことになっていました。
(ガラス越しに写真を撮りましたが、よく写っていますね。)

これでは、当分営業は出来ないと思われます。


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  (↑セイブ食彩館の店内の様子です。)


話は戻って、まだ地震の当日の話が続いています。
(今回の地震の記録として、自分に起きた経験を綴っています。)

確か我が家は、地震に強いツーバイフォー工法だったはずなので、自宅が一番安全と思っていました。

なので、我が家で一晩明かすことに何の不安もありませんでした。

それに、これから夜が冷え込みますが蓄熱暖房器の前でぬくぬく状態です。

すぐに寝てしまおうと思えうくらい、あたたかです。

明日からきっと忙しくなるので、少しでも温存しなければと考えていました(いえ、安心したからかも)。

周りは少しずつ暗くなってきたかと思うと、いつの間にかすぐに周りの物が見えない暗さ(闇)がやってきました。

普段は、ご近所の明かりや、街灯などの光りがあるのに、一帯が停電しているのでまさに暗闇なのです。

すると…

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  (↑店内の様子を、店の外からガラス越しに撮影しました。)


玄関をドンドンドンと、もの凄い勢いで叩く音が聞こえます。

でも、辺りは真っ暗で、玄関は床に花瓶が落ちてガラスの破片が広がっているのでとても行けません。

一番近くの窓を開けて外を確認するけれど、玄関に人がいるのかも分からないほど暗くて、ほとんど何も見えません。

まだ夕方なのに、周りに明かりが一切ないと、暗くて何も見えないのです。

生まれて初めての経験でした。

ドアを叩く人は、旦那さんだと思っていました(それしか思い当たらない)。

でも、こんなに早く帰ってくるわけはない、どうしたのだろう…

そう思っていたら、それは、私の母でした。

母が私の名前を読んでいました(母も暗くて私が見えていない)。

暗闇の中、私たちに見えるのは、空の星。

星だけが鮮やかに光りを放っていました。

母には、職場から帰ってくるまでに何度も携帯電話を掛けていました。

でも、電話はずっと繋がらなくて、メールを何度も送りました。

帰宅してからは、旦那さんの実家から安否の確認で連絡が入り、現状を伝えていたために、携帯電話の電池は底を尽いてしまいました。

電源を一旦オフにして、再起動すると、まだメールなら使えます。

それでも、母からの返事は無く、心配で父に携帯電話を掛けると繋がりましたが、父も母とは連絡がつかないと言っていました。

また電源が切れました。

父も、うちの旦那さんと同じ原子力の研究所に勤務しています(旦那さんとは事業所が違う)。

定年後もまだそこで働いているのでした。

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  (↑今日現在のセイブ、外観の様子です。いつも駐車場は満車なんですよ)


現在両親は、主にマンションに住んでいます。

マンションは13階建てなのですが、その最上階に住んでいるので、そこで地震を経験した母は、相当恐ろしい目にあっていたと想像できます。

地震後、母は近くの公園へ管理人さんの誘導で避難していましたが、日が暮れる前に避難場所に指定されている中学校へ同じマンションに住まわれる方々と移動したそうです。

母は、私と父に電話を掛けていたそうですが、全く繋がらなかったと言っていました。

中学校にはたくさんの方が避難されていましたが、そこは避難場所ではあっても避難施設ではないので何も無く、寒いし、暗いし、そこにいること自体が母には不安で、私の家まで歩いてきたというのです(車で15分くらいの距離)。

でも、辺りは既に真っ暗で車もあまり通らなくなっていて、道に迷いながら4、5キロは歩いたと思われます。

母がここへ来るまでの間に、唯一明るい「灯り」を見たのが朝鮮学校(正式名はもう少し長いかもしれません)でした。

私の家に近い避難場所は、小学校が2校、中学校が2校、高校が1校、公民館的な施設が1つほどあって、我が家はそれらのほぼ中央に位置しています。

因みに、お世話になったことはありませんが、個人病院がとても多い場所でもあります。

それらの避難場所の他に、聾学校や、朝鮮学校があるのですが、聾学校は避難場所に指定されているようなのですが、朝鮮学校は避難場所に指定されていませんでした。

私は、朝鮮学校が避難場所に指定されていなかったことを、その後で知ることになります。

朝鮮学校のその灯りは、焚き火をしていた灯りで、学校の関係者(先生方)と児童、生徒の皆さん、父兄の方々が避難されていました。

母は、そこへ行こうと言うのです。

自分の家が一番安全と思っていた私でしたが、やや興奮気味の母にそうは言えずに、母が納得のいくようにその場へ行ってみることにしました。

朝鮮学校には、焚き火を囲んでたくさんの人と、その父兄の車が止めてありました。

数台の車が、一晩中ライトをつけて私たちの不安を解消しようと照らし続けてくれていました。

私は、素直にその中に入っていくことができませんでした。

そんなことは図々しいと思ったからです。

でも母は違っていました。

困っている時はお互いさま、みんな同じよと言いながら、聞いてくると言って、和の中へ入って行きました。

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  (↑セイブの同敷地にある花屋さんは営業を始めていました。)


朝鮮学校の人たちは、快く私たちに暖と居場所を与えてくれて、握りたてのおにぎりをくださいました。

そのおにぎりが美味しいの何のって、ただ塩を掛けた普通のおにぎりなのですが、その優しさと温かさにただただ感謝でした。

私たちがおにぎりを食べている間にテントを作っていて、その中にストーブが1台設置されました。

ここは校庭です、風が強くて寒いのなんのって。

青いビニールシート1枚で三方を囲ってあるだけのテントでしたが、その中は風が防げるので寒さがしのげました。

そこへイスをいくつか運んでくれて、私たちに勧めてくれました。

それから炊き出しのスープをいただいて、夜遅くなると子どもたちは教室へ入りました。

宿舎もあるので、毛布などもあったようです。

ただ、建物の安全な確認されていないので、1階の1教室だけに子どもたちを集めて寝かせることにしたようです。

焚き火の場所から一番近い教室なのですが、きっと中も寒かったと思います、怖かったと思います、でも、誰一人として不満も言わずに先生方の言うことを聞いて教室に入って行きました。

大人たちも、子どもたちも、みんな頑張っているんだと思いました。

校舎の時計は、地震の起きた2時49分(3度あった地震の中で茨城沖の地震の時刻と思われる)で止まっていたのが、印象的でした。

先生方、生徒の皆さんはとても親切で、常に私たちを気にしてくれて、優先してくださいました。

みんな同じ被災者なのに、こんなに温かく迎え入れてくれて、本当に申し訳ないくらいでした。

それから、先生と生徒のお母さんと、地震の起きた時にしていたことなど色々な話をすることが出来ました。

見渡すと辺りの住宅は真っ暗です、その一つ一つの家の中で、皆さんはどのように過ごされたのでしょうね。

空を見上げると、無数の星が目に飛び込んできて、私は寒さも忘れ、暫しその輝きに魅了されていました。

本当に、キレイな星空でした。

ふと気づけば、焚き火の木はどこからともなく運ばれてきています。

この寒さの中、今も木を切っている人がいるのです(たぶん、男の先生方と思います)。

私にも何かお手伝いができると思い、木を切る場所へ移動しました。

「お手伝いさせてください」と言うと、

「危険ですし、大丈夫ですから座っていてください」と、気遣ってくださいました。

うちの男たち(旦那さん)に比べ、なんて働きものなの~!(心の声)

よく見ると、それは桜の木でした。

蕾を持つ枝もあって、まさにこれから来る春にこの校庭を飾ってくれるはずの桜の木々でした。

たくさん、たくさんの枝が切られて運ばれてきました。

私は桜の木が切られていることに気付いた時、とても辛くなりましたが、それを切らなければならない先生方の心を思うと切なさでいっぱいになりました。

テントに戻ると、男性の先生が私たちにラジオを貸してくださいました。

そこから聞こえてくる茨城放送は、震災の状況と、交通渋滞の様子、支援物資の手配など、ずっと同じ内容を繰り返し伝えていました。

夜中、父が大渋滞から脱出して、こちらへ合流しました。

ここへは、他にも近くに住むと言う親子連れが避難に来ていました。

そのお母様は、少しパニックを起こされていたようでした。

それに反して、娘のふたりはとても冷めていたのが印象に残っています。

朝鮮学校の方々は、一人一人丁寧に世話をやいてくれていました。

少し前までテントでおしゃべりをした女子中学生が、校舎へ誘導される時に私たちに渡してほしいと、自分たちが使っていた毛布を寒いからと先生に託してくれていました。

それを先生から伺って、その毛布を差し出されたのですが、寒いけれど、もったいなくて使えません(涙

生徒の気持ちですから…と、先生が毛布を手渡してくれました。

みんな、みんな、なんでこんなに良い人なの~(泣

それに比べて私たち、同じ境遇の被災者なのに、助けてもらうだけ。

それでも、助けてもらうなら、感謝の心だけは伝えなければと思います。

ここは避難所じゃないし、みんな同じ被災者です。

被災していても、誰かを救うことは出来ると、ここで教えてもらいました。

ここにいる人たちは、他人のためにそれが出来る人。

風が強くて、皮膚がちぎれるほどの寒さでも、この人たちの笑顔は優しくて強い。

この笑顔を忘れない・・・。

そんな中、本震の後も大きな余震はずっと続いていて、体は揺れているのか、揺れていないのか、くらくらしてしまって分からなくなりました。

座っていても、常に地面が揺れているように感じていました。

先生方は焚き火で暖を取っている間も、大きな余震がくるたびに子どもたちの眠る教室の窓を、出口の確保のために開けに走ります。

何も出来ないけれど、私も少しでも何かしたくて校舎側の教室の窓まで走ります。

真っ暗な空にヘリコプターが音を立てて飛んでいく姿を何度も目にしました。

周りが静かすぎるので、そのヘリの音だけが妙な恐怖感をあおりました。

まるでこれは現実のことではないのかもと、思ってしまいます。

東の空に、一際輝く明けの明星(金星)を見ることができました。

夜明けです。

結局、寒くて一睡もできませんでした。


つづく



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東北関東大震災(自宅)

つづき

ニャン達は…

ミーちゃんの無事は玄関先で確認できています。

ジンくんは、ダイニングにあるキャットタワーのそれも一番上に座っているのを見付けました。

しかし、ジンくん、キャットタワーの上は揺れが大きいだろうから返って危険だと思うのだけれど…

ジンくんなりに、高い所へ避難していたのでしょうか?

でも、様子はおかしいです。

首をずっと傾けたままで、お喋りをしません。 鳴きません。

必ず一番に迎えに来るジンくん、得意のお喋りは翌日のお昼過ぎまで聞けることはありませんでした。ゴメンネ、ジンクン。ソバニイテアゲラレナクテ・・・

ジンくんの乗ったキャットタワーは、横に5cmほど移動していました。

暫くすると、ミーちゃんが2階から下りてきて甘えています。

怖かったね…

家の中の被害が想像していたものより少なかったので、ニャン達は皆無事であることが分かりました。

なので、無理に探してこれ以上驚かすようなことは避けました。

そのうちに、ビビがコタツから出てきました。

意外だったのは、ネモちゃんが一番最後だったことです。

体に多くの障害を持っているので仕方ないのですが、居場所はコタツの中と想像できていたので出てくるのを待ちました。

それでも、ネモちゃんはずーっと出てきませんでした。

他のコもそうですが、相当怖かったのだと思います。

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そんな今は、あの大地震から4日経っています。

ニャン達もすっかり余震には慣れて、いつもの生活に戻りました。

家の中も、既に割れものなど危険物の片付けは済んでいます。

それでも、まだまだ大きな余震が続いているので食器棚の割れものなどはそのままにしてあります。

かなり酷いことになっていた玄関は、片付けてありますので写真はありません。

↓引き戸の端から、時計脇にかけて、亀裂が入っているのが分かりますでしょうか?

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クロスだけが裂けているようなのですが、玄関とリビングの2箇所に見受けられました。

家の中の破損に関しては、その程度です。

そう言えば、床の至る所にこのコ達の爪痕が残っていました。

床は、猫との生活を想定して硬めの床材を採用しています。

それでも、これだけのキズが付いているのは、逃げるのに必死だったということです。

本当に恐ろしかったと思います。

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引き出しという引き出しは、全て開いていて散乱している物が多々ありました。

それでも、食器の被害は、震度6強の割には少なかったように思います。

1階の観葉植物は、倒れていませんでした。

が、しかし…

キッチン奥にパントリーがあるのですが、以前使っていた食器棚 ↓ と、その反対側に、あらゆる物を?ストックできる棚があって、そこには蜂蜜の瓶(1kg)がいくつかありました。

(蜂蜜は、食パンを作る時に生地に入れています。)

たくさんの物が落ちていましたが、蜂蜜の瓶も落ちて割れていました。ガーン!

割れていたのは1つだけでしたが、そ、それって、アカシアの蜂蜜… タカカッタノニ

黄金色の蜂蜜がキラキラと床一面に広がっていました。ミルダケナラキレイ

まずはこの蜂蜜とガラスの破片を処理しなければなりません。

(蜂蜜を拭きながら、舐めたいと思ってしまう自分が怖い…)

他のものまでベタベタに蜂蜜が付いてしまっていて、思うように片付けが進みません。

慎重に片付けてはいたのですが、やはり指を切りました。キー

床に広がる蜂蜜を拭き取りながら血の色が混ざっていきます。ヒエッー


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これに相当時間を費やし、気が付けば辺りは暗くなりつつありました。

電気が通じていないので、部屋の中はすぐに真っ暗になってしまいます。

寒さもありましたが、我が家には頼もしい蓄熱暖房器があります。アンタハエライ!

すぐに食べられる物を用意して、服は動きやすいものに着替えて、蓄熱暖房器の前でこのまま一晩過ごす覚悟でいました。

準備もOK! で、蓄熱暖房器の前で一番にしたこと→ なぜか、頂きものの苺1パックを洗ってそのまま食べていた私。

そして、旦那さんはというと、原子力関係の仕事をしているので、今日は帰れないと思っていました。

ええ、私だけでも全然ヘッチャラなんです、このコ達の無事が分かったのですから。

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↑ 1階にある納戸ですが、詰め込み過ぎがバレバレですね。

色んな物が落ちてます。オホホホホホホ…

お、お、お、思い切って処分できるかしら… ねっ。 


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↑ 2階のウォーキングクローゼット内の様子です。オミグルシイデスネ

クローゼット内にある婚礼ダンスの向かいは、布団などが収納できるように押入れのような造りになっています。

うーん、ここも色んな物が落ちていますなぁ・・・・・・・・・・

ここは、旦那さんの私物が多いので旦那さんにやってもらいましょう。ガッテン!

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2階にある観葉植物は見事に倒れていました。

洗面所も引き出しが開いていて、タオルやら何やらが散らばっています。

綿棒も全てバラバラに飛び散っています。

シャンプーとか、歯ブラシとか、とか、とかを、あまりストックしていると、こんな時に大変な目にあいます。(皆さん、気を付けましょうね!)

それと、洋室はタンスが移動していて、ドアが全く開かなくなっていました。

あの重いタンスが動くのですから、当然ながら2階の揺れが酷かったことが想像できます。

全てを取りあえず確認して、いざ、蓄熱暖房器の前へ!

つづく


-今日の不思議?-

 千葉県の知事が東京電力に対し、計画停電についての苦情を言っていました。
「被災地である県民に、更に不安な夜を過ごさせるわけにはいかない…」

茨城県に住む私も、もの凄く被災地の人間ですが、東北の方々を思ったら計画停電の受け入れは止むを得ないことと、当然の覚悟でいました。
断水が続く中、やっと通じた電気をまた奪われることになりますが、たった3時間のことです。
生活に不便さはありますが、その協力は惜しまないと思えました。
(電力が無いと命に危険が伴う方を覗きます)

しかし、千葉県知事は違いました。
多事多端の(それも尋常ではないであろうに)東京電力の人を、知事室へ呼びつけたのでしょう、いくつかのテレビ局まで中継が繋がっていました。
千葉県民ためだけの苦しい事情を怒りとともに訴えていました。

同じく、総理大臣も東京電力の報告の遅さに怒り心頭でした。
しかし、事の重要さと状況を把握しているためか、総理大臣自らが東京電力へ出向き叱責することとなりました。

一国の総理大臣と、県知事、だから差が出たのでしょうか?
東京電力の方も、正に命を張って仕事をされていると思います。
被災者だって、被災者を救えるんですから。


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東北関東大震災(帰宅)

つづき

職場を後にして、取りあえず車で自宅まで急ごうとしましたが、渋滞で一向に動きません。

電気の消えたコンビニには人があふれ、遥か外にまで長蛇の列を作っていました。

停電で信号機が機能しなくなっているので、警察の方々が手信号で人や車の交通整備にあたっています。

道路には亀裂が入り、地割れを起こしている所もあって、道路に段差がいくつも出来ていました。

どの方向へも車が渋滞していて、自宅から車で15分程度のところを相当な時間を掛けて帰宅しました。

今後に備え、途中でガソリンを入れておきたかったのですが(エンプティに近いし…)、その方向も大渋滞でしたし、家にいるニャン達のことが心配で帰路を急ぎました。

このことは、あとで燃料不足で大変な目にあうことになります。ガソリンダイジネ


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自宅に着くまでに、屋根から瓦が落ちている家をたくさん目にしました。

自宅近くになると大谷石を使った立派な塀を持つお宅が多いのですが、ことごとく倒れています。

崩壊の家はありませんでしたが、道路に塀の一部が崩れ出ているので、注意して運転しなければいけません。

ますます、我が家が心配です。

焦る気持ちと、目の前の現状に驚くばかりで、気持ちをしっかりと保つ必要がありました。

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帰宅すると、我が家は外見上は無事のようです。ホッ!

瓦も落ちていないし、壁に亀裂も見当たりません。

玄関を開けようとして2階を見上げると、窓際にミーちゃんの張り付いている姿がありました。

おおっ、 ミーコよ~!!!! (無事だった…)

外からたくさん名前を呼びましたが、完全無視でした。

こちらを見ているのに、何の反応もしないのです。

そして玄関を開けた瞬間…、唖然、茫然、、まっ、そうだろなぁ…。

ガラス製の花瓶が粉々に割れて玄関に飛び散っています。

玄関脇にある土間納戸のドアが開いていて、中のものが怒涛の如く玄関に雪崩れ込んできています。

踏み場がありません。

最近買った絵もまだ飾っていないうちに玄関に放り出されていました。

更に、よく見れば壁に亀裂が走っているではあ~りませんかぁ~

(もしかしたら、クロスだけかもしれませんが。)

いいえ、こんな玄関先で怯んでいてはダメ!! ガラスを踏まないように、いざ家の中へ…

つづく



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東北関東大震災(茨城)

平成23年3月11日(金)14時46分に、世界最大級の地震が東北地方太平洋沖で発生しました。

気象庁は、この大地震が地震観測史上最大のマグニチュード9だったことを発表しました。

『マグニチュード9』って…

この信じられない数値は、信じられない現状を私たちに叩きつけてきました。

私たちは、無事です。

ニャン達もみな元気です。

ご心配をお掛けしましたが、みなさんの温かなコメントに勇気と元気をもらえたことは、震災の翌日電気が通じた後の夜に噛み締めることができました。

本当に、本当に、有難うございました。

すぐに無事の連絡を発信したかったのですが、前日が徹夜で避難所生活でしたので、パソコンに向かってコメント欄を開いたまま爆睡してしまいました。ゴメンナサイ!

コメントを読んで元気をもらって、笑顔になって、安堵して、爆睡~なんて、ホント幸せ者です。

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そして、震災直後に怯えていたニャン達は、今はこんなに元気、こんなにのんびりできています。

有り難いことです。

ですが、死傷者の数を見れば喜んでばかりもいられません。

本当に、この地域であの津波を受けていたらと思うと、ただただ恐ろしさと悲しさで胸が詰まります。

ライフラインは電気が通じ、水がまだ使え無い状態です。

断水による生活の不便さはありますが、我が儘は言ってられません。

みんながみんな、被災者なのですから。

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私の住む茨城県では、震度6強の地震が発生していました。

地震発生時は職場に居て、外出から戻り机に座っていました。

職場は4階建てのビルで、事務所はその4階になります。

地震が起きてもいつもの地震と思い、皆普通に仕事を続けていました。

が、しかし、地震は次第に大きくなり揺れ続けました。

私は手元にあったお茶がこぼれないように、なぜか必死にコップを持ちあげていました。

立ち上がれない状態になり、床にまともに座ることもできない揺れです。

机は大きさもあり重くて頑丈なのですが、机と部屋中の物がまるでぐるぐると動いて移動しているかのようでした。

もちろん机の上にあった書類等は床に散らばりました。

備え付けの本棚からは、書籍類が一瞬のうちに飛び出して散乱しています。

食器棚や小さめの冷蔵庫は倒れています。

時間は相当経過したように思いましたが、それでも揺れは収まりません。


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私は、すぐに出口の確保をしました。

まともに歩けませんでしたが、非難をする際に出口となるドアが変形してしまっては開くドアも開かなくなり閉じ込められてしまいます。

そこからすぐに外に出る判断は分かれましたが、出ない危険の大きさは無視できません。

取りあえず近くにあった貴重品とコートを持って、出口に向かいました。

エレベーターは止まっていました。

階段を降りながら壁にひびが入っているのが分かりました。

その際もずっと大きく揺れ続けています。

階段を下りている時に、旦那さんから電話が入りました。

事の重大性に気付いていないのか、少し笑って地震の話をしていることに腹が立ちましたが、ここは他の職員の手前普通に会話しました。

旦那さんの会社は緊急回線となっているので優先度が高く連絡も繋がり易くなっています。

とにかく、情報をくれと依頼しました。

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外に出たら、上から物が落ちてこないような広い場所、地盤の強い所と思い、駐車場に移動しました。

既に下の階の事務員さん達もいて、不安そうな顔をして座り込んでいました。

私たちは必死に携帯で家族に連絡を取り合いました。

しかし、繋がりません。

私の携帯電話には、旦那さんからの電話がたくさん入ってきましたが、あちらもようやく忙しくなったのか、暫くすると連絡が入らなくなりました。

駐車場から見ていると、古いビルは壁が剥がれていたり、窓ガラスなどが割れ落ちた状態でした。

人もたくさん集まってきました。

犬を抱きかかえた夫人がいました。

私も家のニャン達のことが気になりましたが、あの家は地震に強い!絶対大丈夫!!と、もの凄い自信で、あのコ達の無事を祈りました。

それでも、ずっと大きな揺れが続いていて、泣きだす人もいました。

寒さもあったので、肩を寄せ合って、下の階の若い女子職員のワンセグを見つめました。

そこで知った地震の規模と、大津波の警報、北から南の太平洋側(日本列島)は大変なことになっていると目で確認することできました。

110313_5

私は、阪神大震災の時にボランティアで2回ほど現地入りした経験があります。

すぐに、正確な情報と飲み物、食料の確保を頭に浮かべまいた。

ここに居ても仕方が無い、近くには銀行の本店があって外観にテレビが設置されているのでそこへ向かうことにしました。

信号も止まり、家路を急いでいる人の姿が多くありました。

銀行の前では大勢の人がテレビにくぎ付けになっていました。

地震の規模も分かり、自分たちのこれからしなければならないことを(これから不通になるであろう生活を守る)確保するために、自宅へ帰ることとなりました。

つづく




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